History

ブレンダー 細山 茂男

上京から独立するまで

新潟県生まれ。学生時代は高校2年まで運動部で汗を流し、高校3年から“純喫茶”に通い始め、部活以外の世界を知ります。喫茶店をサ店と呼んでいた古き時代は、サラリーマンの憩いの場でもありましたが、リーゼント姿の学生なども入り浸る場所でもあり、この場所にいる事で少し背伸びした気分にも思えました。

高校卒業後は、就職も考えもせずペーパーバックのように都会に憧れ、デザイン学校に入学するため18歳で上京します。広告代理店から始まり、ビル壊しなど様々なアルバイトを経験しました。

当時、通う喫茶店が従業員を募集している求人張り紙を偶然にも見つけ、翌日から働き始めます。洗い場からホール調理場など厨房に携わり、軽食メニューなどを学びながら、調理師免許の資格を取得しました。

東急東横線の学芸大学駅で当時人気店であった、天井から鎖で吊り下げられた手網の焙煎する珍しい自家焙煎珈琲店の『薫珈琲店』を紹介してもらい、本格的な修行を歩み21歳から、13年間店長として勤めました。

喫茶業界はランチブームが到来し、くつろぎの場所として利用されていた一方、高度成長期を迎え物価の上昇は珈琲一杯の単価にまでも影響し始め、繁華街は24時間の深夜喫茶や同伴喫茶と多様化され、アメリカンスタイルのファミリーレストランなどではコーヒーのおかわり自由が主流となり始めます。珈琲専門店や喫茶店では、その煽りを受けサービスの限界を次第に感じ始め、レストランで食後に出されるコーヒーも素っ気なくなってしまいました。

これからの時代は、もっとたくさんの人に気軽に好みに応じた珈琲を自由に操り、語れる職人になりたいと思い、喫茶業(カップ売り)を離れます。家庭でも焙煎した珈琲豆を使い喫茶店と同様に丁寧に入れた珈琲を洒落たカップで飲み、気軽に雰囲気を楽しんでもらえる自家焙煎専門店を本格的に行なっていく発想に切り替えたのです。

「直火焙煎珈琲 香炉庵」の誕生

個人ロースターの先駆者でもあり、業界では儲けの少ない型破りの発想でしたが、カップ売りの喫茶や様々な経験を活かし、多摩川を挟んだ神奈川の倉庫で直火式焙煎釜(富士珈琲機械製作所:ブタ釜焙煎機)を使った店舗向け焙煎を始めることができました。その後、世田谷区の等々力6丁目の目黒通りに面した小さいビルの2階へ移り、珈琲豆挽き売り専門店『直火焙煎珈琲 香炉庵』をオープンしました。

店外にそびえ立つ煙突から出る焙煎の香りに当初は喫茶店と間違えられましたが、狭い店舗ながらご婦人やご夫婦、学生さんや喫茶店経営者まで幅広い層のお客様が珈琲豆を買ってくださいました。仕入れ業者さんからの収穫情報を基に、時には実際取り寄せてサンプル生豆も確認して仕入れを行うことで個性的で良質な豆を安定してお客様に提供できるようになったことは後々大きな自信になりました。喫茶店で味わう珈琲を家庭でも手軽に飲んでもらいたいという思いの実現へ一歩踏み出しました。知人から請われて喫茶店への指導や、普及活動を始めたのもこの頃でした。

「直火焙煎珈琲 香炉庵」の現在

紅葉通りに魅せられ、香炉庵が雪が谷大塚に来てから30年の歳月が経とうとしています。今でも昔の飲食業時代からの古いご常連さんにお店に足を運んでいただけているのはありがたいことです。また、「最近の珈琲は味気も個性もないんだよ!」「学生の頃に飲んだ当時の味が未だに忘れられなくて・・・」などと、ひとづてに聞いて辿り着いたとおっしゃる方もお見えになります。

「たかが珈琲、されど珈琲」

豆そのものも焙煎方法も昔と変わらないままに頑なにこわだり続けて、時代に合わせずに媚びないスタイルのお店ですが、お客様に美味しいコーヒーを店主であるブレンダー細山が提案させていただきます。

※「ブレンダー」という名の由来

マイ・ブレンドや季節限定ブレンドなどの味の表現をイメージした通りに再現することが理想。職人などと呼ばれるのは、頑固者だとか偏屈者など思われるのであまり好かないので、豆を自由自在に扱える人“ブレンダー”がふさわしいと考えたことがきっかけ。今では常連客からそう呼ばれている。